薩摩藩の支配体制
薩摩藩では鎌倉時代以来の伝統的領主による継続的な支配が明治維新まで続き,領主権力は,有力庶家から本宗家への養子により家督を受け継ぐという形で維持されました。
また支配組織の面では,中世的性格の強い外城制度を廃藩時まで保持し,農村構造では家父長制的構造を門割制度という形で制度化しましたが,これは,支配の正当性を明確にし,領民の反乱を最小限に押さえるのに役だちました。
外城制度(とじょうせいど)
薩摩藩では,領内を113の区画に割り,それぞれに地頭仮屋を設け,その周囲に「麓」という武士集落を作って,その地域の行政を管轄させました。
これを外城制度といい,一朝事あるときには,そのまま麓の武士が軍団を形成し地頭の指示にしたがって動員される仕組みでした。
薩摩藩は加賀102万石につぐ天下第二の雄藩で,俗に77万石といわれますが,これは籾(もみ)高で,他藩なみに米高に計算すれば37万石程度となり,農業的にみれば裕福な藩ではありませんでした。
そのうえ,総人口の約4分の1(全国比率の約5倍)という多くの士族を抱え財政面は苦しく,麓の武士は,外城衆中(郷士)として,平時は農耕によって生計を立てていました。
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