朝鮮出兵
全国統一を果たした秀吉は,文禄の役(1592)慶長の役(1597)の2回,朝鮮へ出兵を行いました。
文禄の役では加藤清正・小西行長に続き,島津義弘・久保が兵を募り朝鮮へと渡りましたが,朝鮮義民軍の激しい抵抗や明の援軍などのために戦局は進展せず,この間に和議が成って日本軍は撤退しました(島津久保は唐島で病死)。
しかし,秀吉の手により和議は破られ,再度出兵が行われ(慶長の役),義弘ら島津軍も再出兵しました。
結局翌年の8月に秀吉が死亡,遺言により全軍が撤退し朝鮮出兵は終わりましたが,この戦いでの島津氏は“鬼石曼子(おにしまず)”と呼ばれ恐れられたといいます。
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