更新日:2023年4月11日
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兵児(へこ)踊りの由来には諸説あります。島津義弘が朝鮮に出兵したとき、蒲生・大口・出水・国分各地の軍勢が抜群の功を立て,この壮挙を末永く讃えるために青年武士たちはお互い交流して武勇を後世に伝えよとの仰せがあり、「しからば名を」と乞うたところ、「兵を子孫に伝えるのであるから、児という字を加えたらよかろう」ということで「兵児」の呼び名が起こったというのが一説です。以来、兵児の間には深い交流が行われたといいます。
蒲生の兵児踊りは、蒲生兵児が出水に赴くさまを取り入れたものといわれています。さらに米丸地区に伝承されたものは、大正7年ごろ薩摩川内市祁答院町大村地区で踊られていたものが旧山田村木津志(きづし)地区に伝えられ、さらに柊野(くきの)地区に踊りつがれ、米丸の踊りに取り入れられたと言われています。
踊りの様相は豪放で、頭を振り体を張り、足を上げて大げさに飛び跳ねるというユーモラスで明るい踊りです。
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