前野田植え歌(天城町指定無形民俗文化財)
「前野田植え歌」は,農民の苦しい稲作労働の苦労を和らげるために,歌い踊り伝えられてきたものです。
昭和23年頃(終戦後)までは,田んぼの畦で歌い踊りながら田植えの作業を行っていました。現在は,休耕田のため,舞台で踊るようになりました。
「前野田植え歌」を継承している「前野田植え歌民謡保存会」は,昭和55年に前野集落民が先人達の残した貴重な伝統文化を継承することを目的に,自治公民館活動として発足しました。
平成8年には,町の稲作文化を考えるうえで,非常に貴重な文化財であるという評価のもと,「前野田植え歌」は天城町無形民俗文化財に指定されました。
広域文化祭では,赤ん坊の人形を背負ったり,酒を飲んでいる様子や,カカシ役やウシ役の方々も含めてかつての田植えの様子を歌いながら表現しました。
創作舞踊(演目:「奄美で待って」,「ダレヤメ」,「綾蝶節」,「ワイド節」)
文化祭舞台発表の2番目を飾ってくださったのが,一条流紫寿音会(奄美市)による創作舞踊です。
一条流紫寿音会は,昭和56年結成以来,日本舞踊の普及と技術向上を図っています。
日舞だけでなく,奄美の島唄・新民謡に振り付けをした創作舞踊を広めながら,各地の文化イベントにボランティア出演して,イベントを盛り上げるとともに,対外的にも奄美を大きくPRしています。
今回は島唄「綾蝶節(あやはぶらぶし)」や,開催地の徳之島らしい「ワイド節」等の曲に合わせて創作舞踊を披露しました。
永嶺字収納米(和泊町指定無形民俗文化財)
和泊町指定無形民俗文化財のひとつで,永嶺集落に古くから伝わる伝統芸能です。
来歴は不明ですが,歌詞や題目から薩摩藩時代の米を納める様子が踊られたもので,「今年も米を無事に納められた」という安心感や喜びを表した踊りです。
踊りは三味線や太鼓を使わず,中央で網傘をかぶり両手にセンスを持ちハヤシを言いながら踊る奉行を,脚絆にタスキ姿の男性が鉄製の器を持ち,囲んで踊るのが特徴です。
日本舞踊(演目:「清元青海波」)
日本舞踊は,能に始まり,狂言,歌舞伎,日本舞踊と発展していき,近年は日本の伝統舞台芸能として関心が高まってきています。
その中で「仙田流駒二郎会」は昭和47年より活動をはじめ,昭和54年の徳之島文化協会の設立当初に加入しています。
日本舞踊という古典舞踊を徳之島に定着させるべく地道な活動を続け,指導者と新たな団体(支流)の育成に成果をあげています。
島唄(曲目:「朝花節」,「嘉徳鍋加那節」,「雨ぐるみ節」,「国直米姉節」)
今回は,大和村中央公民館の講師浜川昇氏と講習生が,奄美の伝統文化である島唄の中でも,大和村で昔から歌われてきた島唄4曲を披露しました。
「朝花節」は,唄あそびの一番はじめに声慣らしのためによく歌われます。
「嘉徳鍋加那節」は,瀬戸内町「嘉徳」の「なべ」という女性のことを歌ったものです。
「雨ぐるみ節」は,その土地の風土を歌い上げたものです。
「国直米姉節」は,大和村「国直」の美人(きょらむん)「よね」さんのことを歌ったものです。
大和村中央公民館では,浜川昇先生指導の下,老若男女30人が受講しており,初歩から始めた人ばかりですが,今ではみな上達し,施設の慰問等でその歌声を披露しています。
亀津浜踊り(徳之島町指定無形民俗文化財)
「亀津浜踊り」は,徳之島で飛び抜けて古いとされている民俗芸能で,稲作文化と結びつきが深く,新稲の収穫祭で感謝の心を込めて神様に献げる芸能です。
しかし,江戸時代からの薩摩藩の政策によるサトウキビ栽培と昭和初期からの国の減反政策とともに水田が消え始め,集落における稲作儀礼や「浜踊り」は,徐々に衰退してきました。
それに危機感を募らせた亀津の有志達が継承と保存のため復活活動を始め,昭和51年には徳之島町無形民俗文化財に指定されました。
広域文化祭では,徳之島名物の「闘牛」をウシの人形と映像を使って紹介した後,白の衣装を身にまとった亀津南区の方々が円形になって「浜踊り」を披露しました。
第16回広域文化祭展示発表
展示発表では,大島地区内の全市町村文化協会等から484点の出展がありました。
展示内容
絵画 |
15点 |
書道 |
49点 |
短歌 |
105点 |
合同歌集 |
40点 |
個人歌集 |
40点 |
写真 |
34点 |
編み物 |
7点 |
手工芸 |
20点 |
押し絵 |
18点 |
パッチワーク |
33点 |
トールペイント |
10点 |
翻訳 |
50点 |
大島紬小物 |
50点 |
芭蕉布 |
3点 |
草木泥染 |
10点 |