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古墳・遺跡

昔のことを知ろう

鹿児島県には古くから人が住んでいたことが分かっています。一番古いといわれているのが種子島(たねがしま)の立切遺跡(たちきりいせき)と横峯遺跡(よこみねいせき)で、約3万年前の生活跡(あと)が見つかっています。

上野原遺跡(うえのはらいせき)

霧島(きりしま)市の上野原(うえのはら)には、約9,500年前の縄文(じょうもん)時代初めの、日本最古・最大規模(きぼ)の定住集落跡(あと)があります。竪穴住居(たてあなじゅうきょ)、集石、連結土坑(れんけつどこう)、土坑(どこう)、道跡(みちあと)など多数の遺構(いこう)が見つかっています。連結土坑(れんけつどこう)では肉の薫製(くんせい)が作られていたようです。

指宿橋牟礼川遺跡(いぶすきはしむれがわいせき)

縄文(じょうもん)時代が弥生(やよい)時代より古いということを証明(しょうめい)したのが指宿(いぶすき)市の橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)です。大正時代に発掘(はっくつ)が行われ、火山灰層(かざんばいそう)の上から弥生式(やよいしき)土器、下から縄文式(じょうもんしき)土器が見つかったことで、初めて縄文(じょうもん)時代の方が古いことが分かりました。同じ場所から、縄文(じょうもん)と弥生(やよい)の土器が出土するのは珍しく(めずらしく)、それだけ昔から生活しやすい場所であったと思われます。

横瀬古墳(よこせこふん)

大崎(おおさき)町の横瀬(よこせ)にある古墳(こふん)時代中期の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。全長132メートル、後円部の直径72メートル、高さは10.5メートルもあります。県内では東串良(ひがしくしら)町にある唐仁大塚一号墳(とうじんおおつかいちごうふん)に次いで2番目に大きい古墳(こふん)で、5世紀後半に作られました。志布志湾(しぶしわん)沿岸(えんがん)には、巨大(きょだい)な前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が多く集まっています。

広田遺跡(ひろたいせき)

種子島(たねがしま)の南種子(みなみたね)町の太平洋に面した砂丘(さきゅう)で見つかった、弥生(やよい)時代後期から古墳(こふん)時代後期にかけての集団墓地(しゅうだんぼち)の遺跡(いせき)です。いろいろな貝製品(せいひん)で飾られた(かざられた)人々が埋葬(まいそう)されていました。総数4万4,000個に及ぶ貝製品(せいひん)が出土し、注目を集めています。

写真提供:鹿児島県歴史資料センター黎明館

徳之島(とくのしま)カムィヤキ陶器窯跡(とうきかまあと)

徳之島(とくのしま)の伊仙(いせん)町にある、陶器(とうき)を作っていた古い窯(かま)の跡(あと)です。東西1.5キロメートル、南北800メートルの範囲(はんい)に、100基(き)ほどの窯跡(かまあと)が眠って(ねむって)いると考えられています。

出土した壺(つぼ)や瓶(びん)、鉢(はち)、水差しなどの生産年代は11世紀後半から14世紀前半で、その流通範囲(はんい)は琉球(りゅうきゅう)列島全域(ぜんいき)から九州南部の南北1,200キロメートルにも及びます。

住吉貝塚(すみよしかいづか)

沖永良部島(おきのえらぶじま)の知名(ちな)町にある縄文(じょうもん)時代後期から弥生(やよい)時代当初の集落跡(あと)です。琉球(りゅうきゅう)石灰石(せっかいせき)を壁(かべ)に組み上げた、南西諸島(しょとう)独特(どくとく)の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)や貝塚(かいづか)などが発見されました。保存(ほぞん)状態(じょうたい)もとても良く、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の構造(こうぞう)や出土する石器、装身具(そうしんぐ)からは、当時の生活の様子を知ることができます。

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