ホーム > かごしまキッズサイト > かごしまの歴史を学ぼう! > 郷土の偉人
ここから本文です。
薩摩藩(さつまはん)出身の西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)、小松帯刀(こまつたてわき)などが一生懸命(いっしょうけんめい)がんばって明治維新(めいじいしん)を成し遂げ(なしとげ)、日本を近代国家へと変えていきました。
もとは下級武士でしたが、島津斉彬(しまづなりあきら)に才能(さいのう)を見いだされて幕末(ばくまつ)・維新(いしん)のころに活躍(かつやく)しました。薩長同盟(さっちょうどうめい)や戊辰戦争(ぼしんせんそう)、江戸城(えどじょう)の無血開城(むけつかいじょう)など、新政府(せいふ)樹立(じゅりつ)のために力を尽くした(つくした)郷土(きょうど)の英雄(えいゆう)です。
鹿児島市や霧島(きりしま)市、和泊(わどまり)町のほか、東京の上野公園にも銅像(どうぞう)が建てられ、多くの人に親しまれています。
西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに明治維新(めいじいしん)で活躍(かつやく)した郷土(きょうど)の英雄(えいゆう)です。
新政府(せいふ)が外国の視察(しさつ)や調査などのために派遣(はけん)した使節団(しせつだん)の副団長(だんちょう)として、アメリカやヨーロッパを訪問(ほうもん)しました。帰国後は、政府(せいふ)の中心人物として、国内産業の近代化などに力を尽くし(つくし)、近代日本の礎(いしずえ)を築き(きずき)ました。
今和泉島津(いまいずみしまづ)家に生まれ、斉彬(なりあきら)の養女となり、第13代将軍(しょうぐん)の徳川家定(とくがわいえさだ)に嫁ぎ(とつぎ)ました。しかし、わずか1年半で家定(いえさだ)が亡くなった(なくなった)ため、天璋院(てんしょういん)と名前を改めました。
江戸城の無血開城(むけつかいじょう)に力を尽くし(つくし)、生涯(しょうがい)、徳川(とくがわ)家の立場を貫いて(つらぬいて)第16代当主である徳川家達(とくがわいえさと)の養育につとめました。
天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)と同じ年の生まれで、1861年に島津久光(しまづひさみつ)の側役(そばやく)となり、翌年(よくねん)には28歳(さい)の若さで薩摩藩(さつまはん)家老(かろう)の大役に就き(つき)ました。坂本龍馬(さかもとりょうま)とも親しく、小松の招き(まねき)で龍馬(りょうま)は鹿児島を訪れています。
薩長同盟(さっちょうどうめい)や大政奉還(たいせいほうかん)などで活躍(かつやく)し、新政府(せいふ)でも要職(ようしょく)に就き(つき)ましたが、若くして病死したため「幻(まぼろし)の宰相(さいしょう)」と呼ばれる明治維新(めいじいしん)の実力者です。
薩摩藩(さつまはん)は財政(ざいせい)が苦しく、19世紀前半には500万両もの借金(しゃっきん)に悩んでいました。藩(はん)から財政再建(ざいせいさいけん)の命令を受けた調所(ずしょ)は、密貿易(みつぼうえき)や出納(すいとう)の合理化(ごうりか)などで藩(はん)の財政(ざいせい)を建て直すことに成功しました。
この財政改革(ざいせいかいかく)の成功が、後の集成館(しゅうせいかん)事業とや明治維新(めいじいしん)を進める基(もと)になりました。
斉彬(なりあきら)の医者を務め(つとめ)、薩摩藩(さつまはん)が取り組んだ近代化事業では洋書の翻訳(ほんやく)を手がけました。1861年に福沢諭吉(ふくざわゆきち)たちと幕府(ばくふ)の使節団(しせつだん)の一員としてヨーロッパに渡り、4年後には薩摩藩(さつまはん)英国留学生(りゅうがくせい)を引率(いんそつ)しました。明治維新(めいじいしん)の後は、外国との不平等(ふびょうどう)条約(じょうやく)の改正に力を尽くし(つくし)ました。医師、通訳、外交官として多彩(たさい)な活躍(かつやく)をしました。
日本の警察(けいさつ)制度(せいど)の創設(そうせつ)者。フランスの警察(けいさつ)制度(せいど)を学んで帰国し、1874年に初代の東京警視庁(けいしちょう)大警視(だいけいし)に就任(しゅうにん)しました。これは、現在(げんざい)の警視総監(けいしそうかん)です。
故郷(ふるさと)の鹿児島市の皆与志(みなよし)には、「大警視(だいけいし)」というバス停があります。
西郷隆盛(さいごうたかもり)のいとこ。三度のヨーロッパ訪問(ほうもん)で兵学(へいがく)を学び、日本陸軍を創設(そうせつ)しました。1885年、日本初の内閣(ないかく)である伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣(ないかく)で、初代の陸軍大臣(りくぐんだいじん)に就任(しゅうにん)。また、日露(にちろ)戦争の時は、満州軍(まんしゅうぐん)の総司令官として、その当時は世界最強といわれていたロシア陸軍を破りました。
薩摩藩(さつまはん)とイギリスが戦った薩英(さつえい)戦争で、海岸や海上の守りの必要性(せい)を感じ、新政府(せいふ)では一貫(いっかん)して海軍の前線に立ちました。
日露(にちろ)戦争では、連合艦隊(れんごうかんたい)司令長官としてロシアのバルチック艦隊(かんたい)を日本海で撃破(げきは)し、世界を驚か(おどろか)せました。
イギリスで活躍(かつやく)した海軍司令官の名前にちなんで「東洋のネルソン」と称え(たたえ)られ、鹿児島市の多賀山(たがやま)公園に銅像(どうぞう)が建っています。
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください