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ホーム > 地域振興局・支庁 > 鹿児島地域振興局 > 地域の宝箱!~地域フォトライブラリ~ > 歴史の宝箱 > 「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」が残る三島村硫黄島

更新日:2021年10月26日

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「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」が残る三島村硫黄島

三島村は,薩摩半島の南端から南西にのびる南西諸島の最北部に位置し,竹島・硫黄島・黒島の三つの島から成る人口約390人の村です。

 

その三島の一つ「硫黄島」には,平家が滅びた壇ノ浦の戦いで,入水し崩御したとされる安徳天皇が実は硫黄島へ逃げ落ちて余生を送ったと言われる「平家の落人(おちゅうど)伝説」や,権勢極まる平家打倒を謀ったとして俊寛が流刑となった「鬼界ヶ島(きかいがしま)」が現在の硫黄島であるという「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」等の伝説が残されています。
今回は,その伝説の一つ「俊寛流刑の地,鬼界ヶ島伝説」についてご紹介します。
 
 

~悲運の僧寛~

時は,冶承元(1177)年,世は平家の時代となっていました。
そんな権勢極まる平家の時代に,俊寛の別荘である京都東山鹿ヶ谷荘(ししがたにそう)では,後白河法皇(ごしらかわほうおう)等による平家打倒の陰謀が企てられました。
しかし,源行綱(みなもとのゆきつな)が,この陰謀を平清盛(たいらのきよもり)に密告。清盛は激怒し,陰謀を企てたとして俊寛僧都(しゅんかんそうず)・藤原成経(ふじわらのなりつね)・平康頼(たいらのやすより)を,薩摩国(さつまのくに)の鬼界ヶ島(きかいがしま)に流刑(るけい)しました。
その流刑となった薩摩国の鬼界ヶ島が現在の三島村硫黄島であったと言われています。

「是乗せてゆけしてゆけ」…俊寛辞世の句

俊寛(しゅんかん)・成経(なりつね)・康頼(やすより)の三人が鬼界ヶ島(きかいがしま)に流刑(るけい)となった翌年,清盛(きよもり)の次女で,第80代天皇倉憲仁(たかくらのりひと)の中宮(ちゅうぐう)である徳子(とくこ)が懐妊したことに喜んだ清盛は,流罪となった者達に恩赦を発しました。
やがて赦免状を持った使いの船が鬼界ヶ島に着きました。しかし,その赦免状には成経・康頼の名ばかり書かれており,俊寛の名はありませんでした。
愕然とする俊寛をよそに,使いの船は成経・康頼の二人を乗せると,さっさと島を去ろうとしました。
俊寛は出て行く船にすがりつき,必死に乗せていってもらうよう泣いて頼みましたが,使者に引き剥がされしまいました。
俊寛は渚に倒れ,赤子のように泣き喚き,船の行く先を見つめ,その夜を明かしました。

その後の俊寛

俊寛(しゅんかん)が島に残されたその半年後,かつて都(みやこ)で俊寛が面倒を見ていた有王(ありおう)という童(わらべ)が俊寛を探しに鬼界ヶ島(きかいがしま)にやってきました。
そして変わり果てた姿になった俊寛に対面しました。
身内の消息を訪ねる俊寛に有王は,「北の方(俊寛の妻)も若君(俊寛の息子)もすでにお亡くなりになりました。今は姫君(俊寛の娘)だけが叔母さまのもとに暮らしております。」と告げ,姫君から預かってきた手紙を俊寛に渡しました。
俊寛は,娘からの手紙を読みながら涙を流し,「恥を忍んで,今まで生きてきたのも妻子ともう一度会いたいと思ったからだ。娘のことは確かに気がかりだが,むやみに生きながらえて,娘にいつまでも辛い思いをさせるのは情け知らずというものだ。」と有王に話し,死を覚悟しました。
その日から俊寛は食べ物を一切口にすることなく,ただただ念仏を唱えながら悲劇の一生を終えました。
その年齢は37歳と言われています。
 
俊寛堂

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