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更新日:2012年6月27日

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廃仏毀釈

江戸時代には,幕府の仏教保護政策の影響もあって,仏像をもって神体とする神社があるなど神仏混淆の傾向がありました。
王政復古によって祭政一致をめざす新政府は,1868(明治元)年神仏分離令を出し,神社からの仏教的色彩の払拭に努め,旧幕時代,僧侶より低く位置付けられていた神職は,神仏分離に止まらず,寺院・仏像の破壊,経典・仏具の焼却を求めました。
多くの地方では神仏分離のみで廃仏毀釈には至らなかったが,鹿児島藩は廃仏を断行し,数年間は藩内に一つの寺院もなく一人の僧侶も見られなかったといいます。
鹿児島藩において廃仏毀釈が実施された理由としては,鹿児島では,寺院と民衆の結びつきが薄かったこと,廃寺により職を失った僧侶の生活の保障に努めたこと,藩が廃寺によって得た財源を軍備充実に充当しようとしたことなどがあげられます。この措置により,大乗院,福昌寺など県内の名刹(めいさつ)はことごとく廃されることになりました。

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