更新日:2022年9月9日
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島津家久は関ヶ原の戦後ほどなく鶴丸城の築城と共に城下町の整備に着手した。鹿児島(鶴丸)城の特色は天守閣を有しない屋形造りであった。以後,歴代藩主の下で鹿児島城を中心に,甲突川の流路変更,海岸の埋立て,役所・侍屋敷の移転,上町・下町・西田町三町の設置が行われた。三町には町人も住んでいたが,薩摩藩は専売の多い統制経済制度であったので,少数の御用商人のほかは富商らしいものがいない町であった。
城下は町方三分,武家七分といわれ,武士屋敷の地域が広く,幕末の人口は,五万八千人に達しており,その九割近くを武士階級が占めるという武士の多い町であった。
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