川内港の歴史と沿革
歴史の古い港
川内港は,東シナ海に面した川内川の河口に位置する河口港です。
川内川は,その源を宮崎県,熊本県の一部に発し,鹿児島県北部を横断する九州有数の河川の一つであり,古くから南九州の産業・文化の発展に寄与してきました。
河口右岸の京泊は奈良,平安時代には坊ノ津,博多津とともに九州三津の一つとして称され,京都,奈良方面への海上交通の基地として,また,唐貿易の重要港として繁栄し,当時の名残が唐浜の名にも残っています。
また,島津氏の統治下では京泊は商港,河口左岸の久見崎は軍港として利用され,海陸の結節点となっていましたが,明治・大正期は市街地付近の河岸が水運の中心となっていました。
昭和22年10月地方港湾に指定され,この年,京泊に近海漁業の根拠地として荷揚場が,また,昭和25年頃に太平橋の両岸に物揚場が築造されました。しかし,河口と太平橋の12kmの間には数々の浅瀬があり,水深の維持を図るため,低水工事が種々なされてきました。
大規模な港湾の建設
近年に至り,本港背後地域の開発振興を図るため,大々的に新しい港湾を整備し,川内川の恵まれた用水,背後の林産資源等を活用すべく,河口部の広大な土地に工業地帯を造成することが計画され,昭和33年から現地における自然及び経済調査が実施されました。この調査結果に基づき,同年川内港港湾計画を策定し本格的な港湾施設の整備が始まりました。
昭和30年代後半から船間島地区の水深4.5m岸壁の建設,導流堤の延長等が行われ,さらに河積拡大に伴う発生土砂を利用して船間島の工業用地を造成しました。その後,昭和45年5月に重要港湾に指定され,鹿児島県北西部の流通拠点,開発拠点として注目されるようになるとともに昭和47年3月には港湾計画が新たに策定され,西防波堤等の整備が進められてきました。
また,昭和51年8月に港湾計画の一部変更を行い,水深12m岸壁1バース,水深7.5m岸壁2バースを持つ京泊地区ふ頭が昭和55年4月に完成し,3万重量トン級外航船の接岸が可能となり,港湾取扱貨物量の増大,船舶の大型化,長距離輸送に対応できるようになりました。さらに昭和59年には水深5.5m岸壁2バースを持つ危険物ふ頭も完成しました。平成元年の港湾計画改訂では,物流機能の強化のため唐浜地区に公共ふ頭が計画され,水深7.5m岸壁1バース,水深5.5m岸壁1バースが供用しています。
このような港湾整備が進むのと並行して,昭和62年4月に関税法上の開港指定,平成2年1月に無線検疫港の指定,平成11年4月に植物防疫港の指定,平成13年4月に動物検疫港の指定を受けるなど,外国貿易港としての機能を整備が進められました。平成16年4月に韓国の釜山港と結ぶ外貿コンテナ航路,平成25年8月に中国の上海港と結ぶ外貿コンテナ航路が開設され,今後もコンテナ貨物の取扱量増大が期待されています。
川内港の背後圏においては,平成23年に九州新幹線鹿児島ルートの全線開業,平成27年には南九州西回り自動車道(鹿児島市方面から薩摩川内水引インターチェンジまでの区間)が供用開始となるなど高速交通網も充実し,さらに平成26年には川内港と甑島を連絡する川内甑島航路を開設し,本土と甑島の連絡拠点としての役割も担っている。
このような状況の中、東アジアと日本を結ぶ物流拠点、また、地域経済を支える産業基盤として、「県北西部地域の産業の競争力強化を支え、アジアとともに成長する川内港」の将来像のもと、川内港の特性や優位性を活かしたみなとづくりを目指し、令和元年11月に港湾計画を改訂しています。改訂した港湾計画では、コンテナや林産品等のバルク物流機能の強化を図り、背後地域の国際競争力強化のため、また、災害時の背後地域・離島地域への緊急物資等の海上輸送拠点として、唐浜地区に新たに耐震強化岸壁(–12m)、ふ頭用地を位置付けています。
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