県議会のあゆみ
現在の府県制の基礎となった「廃藩置県」は、明治4年(1871年)7月14日に断行され、3府302県が設けられたが、同年11月22日には3府72県に整理統合された。
廃藩置県により「鹿児島藩」は「鹿児島県」となり、明治4年8月藩知政所が県庁と改称された。
明治新政府は、地方制度の整備に努力し、明治11年内務卿から太政大臣に対し「地方之体制等改正之儀」が建議され、その趣旨に基づき明治11年7月22日いわゆる「三新法」が公布された。
三新法、すなわち「郡区町村編成法」、「府県会規則」及び「地方税規則」とその後明治13年4月に遅れて公布された「区町村会法」の4法によって、我が国地方自治制度がスタートした。
「県会」制度は、三新法の1つ「府県会規則」により創設され、他県においてはすべて明治12年に県会が開設されたが、鹿児島県においては、西南の役(明治10年9月24日終結)の後始末があったため、開設は翌13年となった。
その後、明治21年の市制、町村制の公布及び明治23年の府県制、郡制の公布により地方制度の基礎が確立され、結果的に、国会の開設に先立って制度化が達成された。
県会制度は、府県会規則時代、府県制時代、新府県制時代、戦後の改革時代そして地方自治法時代へとその都度幾多の変遷を経ながら発展してきた。
1 府県会規則時代
ア 県会の開設
鹿児島県会は他県より1年遅れて、明治13年2月、初めての県会議員選挙(選挙区12、定数40人)が行われた。被選挙権は25才以上の男子、選挙権は20才以上の男子で、いずれも一定額以上の地租を納めていることなどの要件が定められていた。議員の任期は4年で2年ごとの半数改選制であった。
県会は、通常会と臨時会とされ、通常会は毎年1回とされた。初の県会は同年5月11日に開会され、会期は23日までの13日間で、この間初の正副議長選挙、県会議事規則の議決等が行われた。
選挙された議長は野村綱、副議長は柏田盛文で、県令は岩村通俊であった。
イ 常置委員制度
府県会規則時代の改正の中で、明治13年11月の常置委員の制度の新設は、後の府県制における参事会制度に相当する大改正であった。
本県においても、明治14年4月の臨時県会で議決され、議員の中から7人の常置委員が互選されて会議を構成(議長は県令)した。任期は2年、会議は月例とされ、県令の諮問を受けて意見を述べ、急施のものを議決し、追って県会に報告することを職務とした。
ウ 宮崎県再分離と議員定数
明治前半の県会の最大の問題は、宮崎県の分離問題であった。
もともと廃藩置県後の明治4年11月に、大隅、日向の区域は、都城県、美々津県に属していたが、その後明治5年の改正を経て、明治6年1月、大隅は鹿児島県に、日向は宮崎県になっていた。ところが、明治9年8年21日、日向全域が鹿児島県に合併され、そのまま明治13年の県会開設となったことから、本県会は最初から分県問題を抱え込んでいた。
結局、明治15年3月通常会で建議された日向分県案は、翌明治16年3月に再提案のうえ可決され、5月9日太政大臣布告により諸県南部を除く日向一円は再び宮崎県となった。
当時、議員定数も改正され53人に増えていたが、うち日向出身者は14人、常置委員7人のうち日向出身者は1人であった。
明治16年7月1日、新鹿児島県会の議員定数は、38人と定められ、同月の選挙で37人が選出され、分県後の新しい県会を構成した。
明治19年頃の全議員
2 府県制時代
ア 府県制の施行
府県制は、従来の府県会規則、府県会議員選挙規則等が統合整理され、これにより、地方自治体は、府県、郡市、町村の3段階となった。県は、知事が所轄する国の行政区画となるとともに、同時に地方自治体の区域となり、郡市から間接選挙で選出される名誉職の議員で構成する県会が設けられた。
この県制は、郡制の施行を前提として施行されることになっていたが、郡制は、法律をもって行う郡の分合を前提としていたため、結局、郡の分合が全国的にはかどらず、明治32年の新府県制公布まで県制を施行できない府県が3府4県に上った。
鹿児島県でも、明治31年9月に、ようやく県制を施行した。
イ 県会
府県制による本県県会の議員定数は、明治24年6月公布された府県会議員定数規則により算定した結果、39人であった。議員の選挙は市においては市会と市参事会が会同し市長を会長として、郡においては郡会と郡参事会が会同し郡長を会長として、会長を除く者の投票による間接選挙であった。
県会議員は名誉職とされ、任期は4年で2年ごとの半数改選制とされた。
鹿児島県の県制施行は、前述のごとく明治31年9月であったので、議員の全員が、9月16日から10月3日にかけて改選され、10月27日までに全員に証書が付与さ れ、同日臨時県会及び通常県会の招集が告示された。旧新府県制時代を通じ、唯一の間接選挙であった。
ウ 参事会制度
県には、県会の他に、副議決機関として県参事会が設けられることになり、知事、高等官2人及び名誉職参事会員4人(議員中からの互選)によって組織された。
任期は、議員の任期に従うものとされた。参事会は、府県会規則時代の常置委員制度を充実したものであったが、参事会の権限は、翌明治32年3月の新府県制により、その独立機関的色彩はやや弱められることになる。
3 新府県制時代
ア 新府県制の発足
府県制は、立憲政治実施に切迫し施行されたため欠点も多く、政府は、これを整備するため、府県制の全文を改正することとし、明治32年3月新府県制が公布され、7月1日施行、従来の府県制は廃止された。
新府県制により、議員の複選制は廃止され、直接選挙による全部改選方式に改められ、府県は法人であることが明定されたのである。
イ 県会
議員が名誉職であり、任期が4年であることは旧法と異ならないが、4年ごとに各選挙区において全員選挙されることになり、その定数が規定された。
鹿児島県会の定数は、2人減の37人となり、明治32年9月から11月にかけて選挙が行われ、11月20日臨時県会が招集された。
4 戦後の改革時代
ア 府県制の大改正
昭和20年7月26日にポツダム宣言が発せられ、8月14日、日本は宣言を受諾、15日終戦の詔勅が国民に発せられ、9月2日降伏文書調印が行われ、戦後が始まった。
地方自治制度については、昭和21年9月、東京都制、府県制、市制、町村制が改正された。これによって、住民の参政権が拡大され、直接請求制度が設けられ、議会の権限が強化され、長は公選となった。
イ 県会
昭和14年9月改選後の次の選挙は昭和18年9月予定であったが、時あたかも戦時中のため延期となったまま、昭和22年4月30日の戦後初の選挙まで、任期は実に7年7月の長期に及んだ。
戦後とともに一応の平和はよみがえったが、鹿児島市街は9割を焼失し、県庁舎、議事堂も焼失した。県庁は、当時の県立第一鹿児島高等女学校内に移転し、昭和20年12月の通常県会は、戦災を免れた鹿児島市の議場を借用して開会された。
昭和21年度は、戦災後の諸対策のため、3回にわたって臨時県会が県立第二鹿児島中学校及び県立第一鹿児島高等女学校校舎を議場にして開かれた。第1回は6月29日食糧緊急対策についてであり、第2回は9月28日地方財政建直しのために、また、第3回は10月25日開かれ、翌年4月の地方自治法施行に伴う準備のための諸般の改正条例及び追加予算等が審議された。
昭和21年12月の通常県会は、県立第二鹿児島中学校の講堂を借用して開催された。この頃から進駐軍の意向に基づく勧告等により議員の辞職が行われ、通常県会終了後辞職者17人、それに死亡者8人を加え、欠員は実に25人となり、残り20人では定員の半数に達せず、ついに議会は不成立の状態となるに至った。
大正時代の議席図
ウ 戦後の初選挙と初県会(県議会)
先にも述べたように、昭和21年9月、府県制度が新しい自治制度導入の方向で大改正され、公布された。
これにより、制度上、その後の地方自治法の骨格となった選挙管理委員会制度の創設、参政権の拡大(被選挙権は25才以上、選挙権は20才以上の男女)、議会の通常会の回数増(1回→6回)、議決権の拡大等が図られた。
昭和22年4月30日、戦後初の県会議員選挙(第1回統一地方選挙)が行われ、51人の定数(米軍占領下にあった大島郡は除く。)に149人が立候補した。戦後初の県会(県議会)は、昭和22年6月12日から14日まで、改装された県議事堂で開会された(臨時会)。
5 地方自治法の時代
ア 日本国憲法の制定
昭和21年6月8日、憲法改正案は、枢密院の諮詢に付した後、衆議院議員総選挙後の第90帝国議会に憲法第73条の手続により提出され、衆貴両院において修正可決の後、10月7日衆議院で可決、枢密院可決を経て、11月3日公布、翌年5月3日から施行された。
日本国憲法は、第8章「地方自治」を新たに設け、地方公共団体の議会は、その議事機関として憲法上の地位を確立したのである。
イ 地方自治法の制定
昭和21年9月の府県制改正後設置された地方制度調査会は、日本国憲法公布後の1 2月25日改正案を答申、これに基づく「地方自治法案」は昭和22年第92帝国議会に提出され成立、4月17日公布、5月3日、憲法と同時に施行された。「地方自治法」は国会法、裁判所法、内閣法等と共に憲法附属法典として、今後における地方公共団体の組織及び運営の基本法であることを明確にし、同時に、府県制に関する法令は廃止された。
ウ 議会の地位の確立
新地方自治制度は、住民の権利の拡充、地方公共団体の自主性・自律性の強化、行政運営の効率化と公正の確保という基本原則の下に、地方議会についても、権限の拡充、その活動の自主性の尊重、並びに住民と議会との関係等についての規定が整備され、議会の地位が確立された。
これより、県会は、県議会と称されることとなり、議会の議決権もさらに拡大され、調査権が賦与された。また、参事会は廃止され、新たに委員会制度が設けられ委員会条例が制定されて、執行部の各部門ごとに常任委員会が設置された。
昭和31年には、定例会の回数が地方自治法の改正に基づき、年4回制に改められ、常任委員会は総務警察、農林、土木、文教衛生及び水産商工民生労働の5委員会となり、議会運営委員会が、別途議会運営委員会規程を制定のうえ設置されることになった。
この後,常任委員会は,執行部の機構改革などに伴い,昭和61年には総務警察委員会、農林水産委員会、企画建設委員会、文教商工労働委員会及び保健福祉委員会の5委員会に改組された。平成8年には、保健福祉委員会が生活厚生委員会に,平成12年には文教商工労働委員会が文教商工観光労働委員会に,平成14年には生活厚生委員会が環境生活厚生委員会に,平成21年には環境生活厚生委員会が環境厚生委員会に,平成22年には総務警察委員会,農林水産委員会及び文教商工観光労働委員会がそれぞれ総務委員会,産業経済委員会及び文教警察委員会に改組された。平成29年には企画建設委員会が企画観光建設委員会に改称され,令和2年には企画観光建設委員会及び産業経済委員会が企画建設委員会及び産業観光経済委員会に再編され,令和3年には総務委員会,産業観光経済委員会,文教警察委員会が総務警察委員会,産業経済委員会,文教観光委員会に再編されるとともに,企画建設委員会が総合政策建設委員会に改称された。
また,議会運営委員会については,平成3年の地方自治法の改正に伴い,法制化が図られたことから,その設置は鹿児島県議会委員会条例に規定されることとなった。