更新日:2022年3月29日

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歴史の概要

鹿児島南西部の坊津の入り江の写真
鹿児島の最も古い遺跡は,種子島で3万年を越える旧石器時代の生活跡や落とし穴が発見されています。縄文時代の生活跡は鹿児島全土に見られますが,1997年に霧島市の上野原遺跡で今から約9500年前の竪穴住居群の跡が発見され,この頃には既に鹿児島に人がムラを形成して定住していたことが分かりました。
稲作農耕を主とした弥生文化の遺跡は国内のいたるところに見られますが,シラス台地の多い本県では,畑作と稲作の両方が行われていました。

 

3世紀後半から4世紀初頭にかけて日本は大和朝廷により統一され,南九州でも4世紀後半には大和朝廷の影響を受けるようになりました。
8世紀は,大隅国府・薩摩国府が置かれ,隼人・熊襲は律令国家に組み入れられました。
12世紀末になると,源頼朝が武士の政権を樹立し,日本はそれまでの貴族に代わり武士に支配されるようになりました。島津氏は,この頃から徐々に勢力を伸ばし,16世紀後半には,ほぼ今の鹿児島県にあたる地域を支配するようになりました。

 

鹿児島は日本の南の玄関口にあるため,古くから中国,琉球をはじめとするアジア太平洋地域の国々との交易が盛んでしたが,16世紀には西洋の文化も入ってきました。
1543年に中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着し,日本に初めて鉄砲をもたらし,1549年には,イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て,日本にキリスト教を紹介しました。
日本の鎖国体制が崩壊する19世紀後半には,鹿児島は藩主の指導で積極的に西洋文化を取り入れるのに情熱を注ぎました。反射炉や各種機械工場の建設,英国への留学生派遣等がその例です。
鹿児島は,こうして当時の日本をリードする大きな力を持つようになり,やがて古い政府を倒し,新しい政府を樹立する中心勢力となりました。

 

新しい明治政府は日本の古い社会を改め,近代的な統一国家づくりを推し進めますが,この政府の中でも西郷隆盛や大久保利通といった鹿児島の優秀な人材が,国政で責任のある役割を果たすようになりました。
その後も鹿児島は,黒田清隆,松方正義,山本権兵衛らの総理大臣をはじめとする政治家や,東郷平八郎らの軍人,画家の黒田清輝らの文化人など多くの人材を輩出してきました。
若き薩摩の群像の写真

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