鹿籠金山せっと節
約325年位前に,島津藩によって,山ヶ野から芹ヶ野に続いて鹿籠金山が開発され,江戸末期から明治・大正・昭和の戦中まで栄枯盛衰を重ねてきましたが,今は休山状態となっています。
金山の最盛期は,技術者,労働者が芹ヶ野金山から多数移住してきて,作業歌として「せっと節」が流行し,伝承されたものだと思われます。
金鉱石の採掘は,今と違って採掘の機械もなく,長さ5寸から6寸の鉄鑿を鉄鎚(セット)で岩石に打ち込み,寸切りにして,坑道を切り開く方法でした。一寸先もわからない真っ暗闇の坑内で,仲間同士が励まし合い,安否を確かめ合って歌ったものだろうと言われています。
この「せっと節」にあわせて,金鉱石採掘の様子を表現しています。鉄鑿で,下・中段・上段と天井に穴を掘る鉱夫たち,砕いた鉱石を「ダツ」で背負って運び出す人,それをまた細かく打ち砕く人,水で洗い,金鉱石を選り分ける人と,それぞれ表現しました。
鹿籠金山の最盛期は,宝永の頃(1704年から1710年)『長崎から遊女数十人が招かれ,酒宴歌舞等の遊興,日夜あい続き,人々皆金銭を湯水の如く消費してその繁華なこと言語に絶し』と言われています。その,繁華を歌った祝い歌「砕場歌」も,「鹿籠金山せっと節」の後にご披露いたします。
公開日時
9月第3月曜日(敬老の日)
公開場所
開催風景
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