ホーム > 地域振興局・支庁 > 姶良・伊佐地域振興局 > 産業・労働 > 農業農村整備 > 堀之内良眼房の事績(川内川の川浚え)
更新日:2019年6月27日
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堀之内良眼房(読み:ほりのうちりょうがんぼう,以下「良眼房」と記述する)は,伊佐市では『川内川の川浚え』を指揮した人物として,伊佐市内の小学校では社会の授業で取り上げられていた人物だが,鹿児島県下でもそう有名な人物ではない。
少し年輩の方なら,直木賞作家海音寺潮五郎の「二本の銀杏」の主人公「上山源昌房」のモデルとなった人物,と言えばあらすじを思い出すことができるかもしれない。二本の銀杏で主人公が農業土木工事的な工事を指揮しているのは,良眼房と同じである。
良眼房は,1808年(文化5年)に,伊佐市立大口東小学校の近くの西原八幡宮の第13代宮司として生まれ,真言山伏の修行を治め,大政奉還の6年前に52歳で亡くなっている。西郷隆盛より20年前に誕生しており,江戸時代後期の人物である。
伝えられるところでは,身長は五尺九寸五分(約180cm),色黒く力も群を抜いていたという。江戸末期の男性の平均身長が155cmとされるので,当時としてはかなり大きい人物である。ちなみに,西郷隆盛が180cm,大久保利通が183cmあったのではないかとされる。
大まかな歴史年表
西暦 |
和暦 |
日本史 |
薩摩藩・伊佐市 |
1800 |
寛政12年 |
伊能忠敬が蝦夷地を測量する | |
1808 | 文化5年 | 間宮林蔵が間宮海峡を発見 | 良眼房が生まれる |
1828 | 文政10年 | 西郷隆盛が生まれる | |
1830 | 文政12年 | 大久保利通が生まれる | |
1833 | 天保4年 | 天保の大飢饉(1839年まで続く) | |
1837 | 天保8年 | 大塩平八郎の乱 | |
1842 | 天保13年 | 水野忠邦による天保の改革 | 良眼房らが川内川の川浚えを開始する |
1843 | 天保14年 | 川浚え工事完了 | |
1849 | 嘉永2年 |
良眼房らが伊佐市大口目丸の用排水路工事を実施 薩摩藩ではお由羅騒動が起きる |
|
1861 | 文久元年 | 良眼房死去享年52歳 | |
1867 | 慶応3年 | 大政奉還 |
伊佐市大口の曽木の滝には,良眼房の顕彰碑が建てられており,次は,その全文である。
良眼房は,文化五年大口に生まれ,家代々の西原八幡宮司を務め,真言山伏として修行を積む
天保の頃,伊佐地方は打ち続く飢饉に農民が極度に疲労し,ことに宮之城までの上納米輸送に苦難し,逃散者が続く
苦境を見た良眼房は,当時宮之城にあった藩倉を下木場に移すことの許可を得て,川内川の巨岩を除き,激流を変え,上納米の船輸送に成功す
さらに藩金三百両を借用し,牛馬百八十頭を購入,貸し付けて農民の窮乏を救う
また,目丸の湿田三十町歩の排水工事をなし美田とす
ここに良眼房の功を刻しその徳をしるす
川内川の川浚えは,農業農村整備事業でいうと「農道」の整備である。
江戸時代後期,伊佐では宮之城まで,上納米を運ぶために約10里(約40km)の距離を馬で運んでいた。
馬で運べるのは,1往復で2俵(約120kg)であるため,上納米を納める農民にとってはかなりの苦労であったと思われる。
曽木の滝のすぐ下流の伊佐市大口下木場から,さつま町宮之城屋地まで上納米の舟運を可能とするため,川内川の急流を整えたのが,良眼房である。
結果として川内川の開削に成功し,1回の舟運で24俵(約1,440kg)の上納米を2時間で運べるようになった。ただし,舟を上流に引き上げるのは人力であったため,効率的には,1往復,3~4日間程度であったと思われる。
また,輸送用の舟として44隻を建造し,隣の人吉藩から船大工や球磨川の急流で舟を運航している舟頭などを連れてきて舟の扱い方を学ばせたりもしており,ソフト面でも舟運を支えている。
その人吉藩は,1665年に球磨川を整備し,人吉から八代まで舟運を成功させている。推測だが,川内川の川浚えはこれに着想を得たのではないだろうか。
下の写真,左は曽木の滝,右は曽木の滝にある良眼房記念碑
下の写真は曽木の滝のすぐ下流にある曽木の滝発電遺構(11月~5月までは鶴田ダムの影響で水没する)
川内川の川浚えは,一番の難所と考えられた,旧鶴田町の神子轟から実施され,1842年1月~1843年4月の,1年3ヶ月で完成した。
新しい藩倉や船着き場の附帯設備まで含めて,2,000両(約4億円)の費用を要した。
工法は,開削予定箇所の流水を木の柵でせき止めて,岩の上で火を燃やして,一気に水を流し岩をもろくした上で,人力で開削するなどしたとのことである。
下の写真で左側は,その工法を採用したさつま町にある神子轟。現在は九州電力の発電施設となっており,普段は立ち入りできない。なお,写真は,伊佐市文化財保護審議会委員東哲郎先生から提供を受けたもの。
また,右側は神子轟の航空写真であり,約116mの工事跡が確認できる。東先生の計測では,高低差が3mあり,斜度は1.5°とのこと。
下の写真は,さつま町にある轟の瀬。左はノミの跡が見られる。右は轟の瀬の航空写真で施工跡が確認できる。
1849年に,良眼房は自身が宮司を務める西原八幡宮の周辺である,目丸地域の水田のための農業用用排水施設整備に取り組む。区画整理ではなく,農業農村整備事業としては「用水路」と「排水路」の工事であったと考えられる。
整備した具体的な施設としては,用水路,排水路,ため池であった。
以下は,大正14年(1925年)に竣工した後牟田耕地整理事業の碑文である。
後牟田は由来湿田にして,作物の栽培に適せざりしも,嘉永二年西原の堀之内良眼房が明渠排水を施し,同時に三ヶ所の溜池を設け,一之渡瀬より水道を開さくし用水の便を図り,田地の改良を促されたる歴史の地なり
平成13年度までに県営ほ場整備事業青木地区として区画整理が行われ,良眼房が整備したという明渠排水は見えなくなったが,用水路とため池は現存している。
ただ,伊佐市文化財保護審議会委員東哲郎先生によると,3ヶ所のため池のうち良眼房が新規に整備を指揮したのは観音面池であり,目丸夫婦池の二池は再整備に関わったのではないかと考えられている。
下の写真は,良眼房が開削した「良眼房水路」。苔と粘土層のコントラストが美しい水路で現在も利用されている。
下の写真は,良眼房が造成した「観音面池」(読み:かんのんめんいけ)。
用水路や排水路の整備では高さを測定することが重要であることは言うまでもない。
東哲郎先生が伊佐市大口目丸地域で古老から聴き取った話として,測量機器のない時代に水路を設置する時の傾斜角度は,夜ガンドン(種子油などを燃料とする灯火)で遠くから見て勾配を測ったと伝えられている。
また,南薩地域から入植者を募集し,もともと目丸地域で2戸程度だった農家を40~50戸の集落とした。
下は,夜ガンドンの想像図
2,000両の費用をかけた川内川の川浚え工事だが,大政奉還の成立で明治時代に突入し,地租改正法(明治6年:1873年)などの成立で,税が物納から金納に移行したことから,1843年の開削成功から約30年で徐々に使われなくなったとのことである。
また,1905年に鹿児島線(現・肥薩線)の栗野駅が開業し,物資としての米の輸送は陸送が主流となる。
さらに,1965年の鶴田ダムの完成により,川浚えのほとんどの工事箇所が水没することになる。
最後に,取材への協力と写真の提供をしていただいた,伊佐市文化財保護審議会委員東哲郎先生へは,感謝を捧げたい。本当にありがとうございました。
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