更新日:2022年11月18日
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大永七年(1527)四月,相州家島津忠良(出家して日新斎と号する)の息子島津貴久は,島津本家に乞われて養子に入り,十五代当主として守護職を継承しましたが,その養父十四代当主島津勝久は,養子貴久に守護職を譲ったことを後悔して,翌五月守護職継承後わずか一ヶ月で「悔返(くいかえし)」という行動に出ました。(「悔返」とは,財産や家督などを譲ったことを後悔して取り戻す行為)
島津本家の当主の座を狙っていた薩州家実久は,十四代勝久をあおって,「日新斎を討て」という言質を勝久から引き出し,喜んで日新斎の領地・日置伊集院を襲います。その後,実久は自分の領地の加世田・川辺等の兵を集め,鹿児島に集結させようとしていました。
この時,日新斎は加治木におり,加治木・帖佐を今後の島津の要地としようといろいろ検討しながら鹿児島に戻ってくるところでした。しかし鹿児島の不穏な状況を察し,田布施の城に戻ります。
鹿児島清水城にいた貴久のところに,実久が軍を率いて「守護職を私に渡せ。逆らうなら武力をもって攻略する。」と言います。それに対して,貴久側の重臣・伊集院大和守忠朗は,「そちらが武力で奪うというなら,こちらも武力でこれを守る」と応えました。
貴久は,群臣と会議をしますが,「守護職たる自分が,己の身を守り,寺に逃げたとなれば,この身は後世に恥を残すことになる。死んでもこの城を守らねばならぬ。」と主張します。この時貴久は14歳でした(以下,年齢はすべて数え年で記述します)。家臣たちは「なんと立派なんだ。」と貴久をたたえますが,貴久の右筆(秘書)園田清左衛門尉実明が来て,「早く逃げねばなりません。」と言い,最終的には皆で,夜に乗じて清水城を脱出しました。
貴久は,実父日新斎のいる田布施に着きます。苦労して田布施に入りましたが,父日新斎は「貴久,おまえは既に勝久公と父子の約束を交わしている。それなのに,勝久公に黙って隠れ逃げるとは,父子の道に反している。すぐに勝久公のおわす伊作に行き,父と子の交わりを絶ち,暇を告げてからその後にここに帰ってきなさい。」と言いました。
貴久はこの言葉に従い,湯元へ出て伊作城へ入り,勝久に謁見して暇を乞いました。
勝久は,貴久が,義を重んじて意を決して自分のところにやってきたのを喜び,「自分にはいささかの二心もない。ただ,讒言を用いる悪人(薩州家実久)に欺かれ,君との父子の情を違えてしまったばかりである。」と,涙をはらはらと落としました。宴を設け,貴久を3日とどめて歓待し,その後従者をつけて,田布施の日新斎のもとへ送り帰らせました。
その後勝久は,薩州家実久に連れられて鹿児島に帰り,還俗して守護職の位に復しました。
同年7月,日新斎は,かつての自分の城・伊作城を,薩州家実久が密かに奪って我が物としようとしているという情報を得ます。日新斎は「伊作城はもともと我が伊作島津家旧来の祖先の地である。勝久公に強く求められて,この地を勝久公の隠居の地として献上したものであるが,これを実久に渡すわけにはいかない。」として,夜に乗じ兵を連れ,実久軍を落とし,晴れて日新斎は伊作城を取り戻しました。
天文二年(1533)2月,貴久に嫡男義久が誕生しました。その頃,日新斎が日置の南郷城を守らせていた桑波田孫六が,薩州家実久に通じて,日新斎に背きました。日新斎は嫡男・貴久(20歳),次男・忠将(14歳)の二人の息子とともに桑波田氏を叩き,南郷城に入りました。その後,南郷城を永吉城と改めます。
この頃,勝久は,比志嶋・河田という家臣を使者として日新斎に遣わし,「先に貴久を自分の養子にした時に,島津宗家の宝物を多く貴久に譲った。今は既に父子の交わりを絶っている。もうそちらに島津宗家の宝物を留め置く理由はないので返してほしい。」と告げます。
日新斎は使者に「宝物で父子の誓いをしたわけではない。ひとたび人に与えたものを返せというのは礼儀にかなっていないのではないか。」と返事しました。二人の使者は帰りましたが,勝久は再び宝物の返還を要求しました。
すると日新斎はとうとう怒って「邪な者(薩州家実久)にたぶらかされて道を誤り,先の約束を違え信頼を失し,その上宝を貪ろうとして義を忘れるとはけしからぬ。この上なお強く求めるというのなら,兵を以て広野で相対して戦おう。その後なら返してやろう。」と突っぱねました。
同年8月,実久が永吉城を襲うという情報があり,日新斎は貴久と忠将を永吉城に置いて実久来襲に備えていました。実久はそれを知らず,鹿児島の軍を率いて永吉城を襲いましたが,日新斎は50余騎を率いて背後から実久軍を攻撃し,貴久・忠将は城の中から飛び出して実久軍の前を攻撃するという挟み撃ちの戦法で,実久軍は前にも後ろにも行けず730騎の兵を討たれる大敗を喫し,鹿児島に逃げ帰りました。
島津本家元十四代当主・島津勝久は,鹿児島で再び当主となって以降,愚かな振る舞いが多かったといいます。
末弘伯耆守・本田次郎左衛門尉・碇山次郎兵衛尉・竹内備中守のような,不正な心を持ちながら主君にへつらうような臣下を側に置き,残虐な行いをし,国政も執らず人望も下がっていく一方でした。
島津家家老の川上大和守昌久は,旧臣15人と一緒に,勝久を諫めました。しかし勝久はこれを聞こうとしません。
ついに天文三年(1534),川上昌久は末弘伯耆守を谷山皇徳寺で殺害します。勝久は,末弘伯耆守が殺害されたことを聞き,恐れおののいて根占に逃げました。
天文四年(1535),根占からこっそり帰ってきていた島津勝久が,今度は川上昌久を謀殺します。先に川上昌久とともに勝久を諫めた15人は,自分たちも昌久のように勝久に殺されるのではないかと恐れ,勝久に背いて薩州家実久の所へ逃げました。
勝久の勢力は孤立し,実久は今がチャンスと喜んで,加世田・川辺・枕崎・山田・市来・伊集院・吉田の軍を率いて鹿児島に入り,村や市に放火して回りました。火は7日間続きました。
勝久はあまりのことに驚き,なすすべなく鹿児島から大隅帖佐に逃げ出しました。その後北原氏・祁答院氏のところに身を寄せたり,都城に行き北郷家の世話になったり,何度か実久とその後も戦ったり,日新斎に「帰ってきたらいかがか」と声をかけられても断ったり,いろいろとありますが,結局は再び政権を奪取することは叶わず,実母(大分の大名家大友氏出身)の縁を頼って,大分の沖浜に移り住み,そこで終生暮らすこととなりました。天正元年(1573)に70歳でその沖浜にて亡くなります。
薩州家実久は,勝久が鹿児島から逃げ出して以来,国政を執り,まるで自分が守護職であるかのように振る舞い始めます。
天文四年(1535),貴久には嫡男・義久に続いて,次男・義弘が誕生していました。
天文五年(1536),日新斎は,貴久(23歳),忠将(17歳)とともに,千騎の兵を率いて,薩州家実久が町田久用に管理させていた伊集院の一宇治城を奪取しました。
翌六年(1537)2月,日新斎はついに鹿児島を落とすべく,犬迫に兵を進めました。薩州家実久は迎え撃ちますが,支えきれず谷山に敗走し,ついには川辺に逃げ込みました。
3月には日新斎と実久は,紫原で再び戦います。その後5月には日新斎は実久と講和しようとしました。日新斎の領地である伊集院・鹿児島・谷山・吉田と,実久の領地である加世田・川辺を交換しようという内容でしたが,実久は受け入れませんでした。
同年7月,貴久の三男・歳久が誕生しています。
この年,実久はいよいよ正式に守護職になろうと,島津豊州家・北郷家・新納家・樺山家などの島津の分家に根回しに行きますが,もちろん全員一致とはいかず,そこでも戦いが起こりました。
天文7年(1538),日新斎は,実久の拠点の一つである加世田を制圧するため,益山に人を敷き,そこから加世田を攻めましたが,この戦いでは日新斎が加世田の兵に負け,戦況が不利になり敗走しました。
この年の年末,日新斎は,再び加世田を攻めることとし,軍を3つに分けて戦略をたてます。第一陣は船待口を,第二陣は大手口を,第三陣は搦手口を攻めることとしました。この時,大手口に狐火が灯り,加世田方は大手口ばかりを注意しており搦手口は油断して手薄であるということがわかったという伝説があります。これは稲荷の狐の加護のおかげであるということで,後に日新斎は稲荷神社を建立しています。島津氏における稲荷の狐の信仰は,初代忠久の頃からあるものであり,その加護の一端がうかがえるエピソードです。稲荷の加護もあり,加世田城は親子三人の攻めで陥落しました。
天文八年(1539)3月,日新斎は実久軍と谷山・紫原で戦い,谷山の苦辛城(くららじょう)を落とし,谷山本城と神前城も落としました。
その後川辺に兵を向け,高城を落とし,平山城を落として加世田に帰りました。これにて,実久の主な領地である加世田・川辺は日新斎のものとなりました。
同年6月,貴久は市来鶴丸城を攻めます。市来鶴丸城は難攻不落で名高く,入来院重聡・重朝親子,樺山善久,島津三郎四郎忠俊,蒲生宮内大輔などの助力をもってしても,降伏させるまでに60余日かかりました。
市来鶴丸城落城と前後して,串木野城を実久から預かっていた川上忠克も降伏し,これで実久は,その所領のほとんどを日新斎親子に抑えられ,元々の本拠地である出水に28歳にして隠居しました。実久は,その後も天文二十二年(1553)に死去するまで,日新斎親子に帰順しなかったと言われています。
文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。
<参考文献>
鹿児島県史・島津氏正統系図他
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