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ホーム > 地域振興局・支庁 > 鹿児島地域振興局 > 教育・文化・交流 > 3島津忠良(日新斎)と島津貴久について(1)

更新日:2022年11月18日

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3島津忠良(日新斎)と島津貴久について(1)

島津氏中興の祖と言われた島津忠良と,その息子貴久について紹介します。忠良は,島津分家の伊作島津家の出身です。

忠良は,父(伊作家)島津善久と母新納常磐(にいろときわ)の間に生まれた嫡男です。
元々(伊作家)島津善久は,新納常磐の婿養子として新納家に入っていましたが,後に養家新納家を辞して伊作島津家へ帰ります。その時に,常磐も善久に従って伊作島津家へ入りました。

新納家系図

明応元年(1492)9月23日,伊作亀丸城にて忠良は誕生します。幼名は菊三郎と名付けられました。
明応三年(1494)4月18日,忠良の父善久は,従僕に殺されてしまいます。原因は明らかではありませんが,一説には他分家による暗殺という説もあるようです。

父

この時嫡子忠良はまだ数えで3歳でした(以下,年齢はすべて数え年で記述します)。祖父(伊作家)島津久逸と母常磐により養われ,7歳の時に,真言宗のお寺「海蔵院」に登学に出向き,禅僧頼増和尚(らいぞうおしょう)の教育を受けることになりました。
頼増和尚は厳格で,忠良が言うことをきかない時には,柱にくくりつけて指導したこともあったそうです。この時の柱が「日新柱」と呼ばれ,現在の日置市立伊作小学校に伝えられています。(厳密に言うと,本物は海蔵院が火事にあった時に焼失しましたが,後に再建された柱の一本を,「日新柱」と称して保存しています。)

明応九年(1500)薩州島津家の家中の争いに巻き込まれ,忠良の祖父久逸は戦死します。
伊作島津家は,善久,久逸と相次いで当主を喪い,後継者になるべき忠良はいまだ9歳で,忠良の母常磐は途方に暮れていました。
そこに,相州島津家当主の島津運久(ゆきひさ)が常磐の美貌の噂を聞いて求婚してきました。常磐は亡き夫に対する貞節を守るため断りますが,運久は諦めません。とうとう常磐は「我が子忠良を運久公の跡継ぎとしてくれるなら嫁ぎます」と返事をします。

再婚

運久は大いに喜び,「自分はいまだ跡継ぎはいない。忠良殿を跡継ぎとするのはこちらも望むところである」と誓書を送ってきました。常磐はなお「相州家の家臣の皆様からもその旨の同意の誓書をもらってください」と頼み,家中家臣の誓書も手に入れて,運久に嫁ぎました。

誓書

永正三年(1506),忠良は元服し,伊作島津家の当主となります。
永正九年(1512)に,相州家運久は約束通り忠良に家督を譲り,これにより忠良は伊作家・相州家の両家の当主を兼ねることとなりました。

まめ

忠良は伊作家・相州家の領地を良く治め,その評判は領内外に広まっていました。

一方その頃,島津本家では,十四代当主島津勝久が家の運営に苦慮していました。
勝久の父・十一代忠昌が急死(「国中大乱」と言われるほどの内乱に苦しんで自死したと言われています)後,勝久の長兄十二代忠治,次兄十三代忠隆が相次いで短命で亡くなり,島津本家は領地を治める統治能力がすっかり弱っていました。

忠昌

その勢力挽回のために,分家・薩州島津家の島津実久を頼ることとし,実久の姉を勝久の正妻に据えましたが,だんだん実久が増長し,当時まだ跡継ぎの男子のいなかった勝久に「自分を跡継ぎにしろ」と迫り,兵を挙げて勝久に対して謀反を起こします。

勝久は実久のあまりの所業に,大いに恐れ,しかし実久を征伐するほどの力はなく,大永六年(1526)に,英明の誉れ高い相州家島津忠良に助けを求めました。忠良は勝久の頼みをきき,反乱を鎮圧したり,国政を手伝ったりと,助力を惜しみませんでした。

系図一部

勝久・実久・忠良・貴久の関係図(PDF:286KB)

勝久は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守を使者に立て,忠良に,忠良の嫡子虎寿丸(後の貴久)を自分の養子にして,ゆくゆくは守護職を継がせたいと申し入れました。忠良は堅く固辞しましたが,勝久側がどうしてもと引かないので,やむなく承諾しました。

清廉潔白

同年十一月,勝久は虎寿丸を元服させて,養嗣子とし,島津又三郎貴久と名乗らせます。翌七年(1527)四月には,貴久に守護職を譲りました。勝久は貴久の実父忠良を貴久の後見人に据えて,自分は出家して伊作亀丸城に隠居します。この時,忠良も剃髪して,愚谷軒日新斎(ぐこくけんじっしんさい)と号します。忠良は36歳でした。
貴久の守護職継承に黙っていなかったのが薩州家実久です。同年五月に勝久に,「まだ若いのに隠居することはありません。守護職に復帰なさいませ」と誘いかけ,勝久はその説得に心を動かされ,貴久との養子縁組を解消し,守護職譲渡の無効を言い渡しました。貴久に守護職を譲ってわずか1ヶ月後のことです。
ここから,貴久・忠良親子と本家勝久と薩州家実久との三つどもえの家督相続争いが始まります。

心変わり

地図画像

亀丸城入口

亀丸城説明

誕生の碑

多宝寺跡

父の墓

母と祖父の墓

海蔵院跡

日新柱

これらの日新公に関わる史蹟については,日置市内にあります。

また,日置市教育委員会吹上支所には,伊作城跡散策マップがありますので,御希望の方は,日置市教育委員会吹上支所にお問い合わせください。

(電話:099-296-2124所:鹿児島県日置市吹上町中原2568番地)

伊作城跡散策マップ

文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。

<参考文献>
鹿児島県史・島津氏正統系図

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