ホーム > 地域振興局・支庁 > 鹿児島地域振興局 > 地域の宝箱!~地域フォトライブラリ~ > 歴史の宝箱 > 2島津氏初代島津忠久から十四代島津勝久まで,さらに伊作家島津忠良(日新斎)に至る経緯について
更新日:2022年11月18日
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島津氏中興の祖と言われた島津忠良について紹介します。鹿児島では,「いろは歌」を作った人物として有名です。
その前に,島津氏初代忠久から,忠良に至るまでの経緯を簡単に説明します。初代忠久は薩摩・大隅・日向の守護職に補任されていましたが,比企の乱に巻き込まれた関係で,三国の守護職を没収されます。その後薩摩国の守護職は回復しましたが大隅・日向の守護職に関しては復権されず,忠久から四代忠宗までは薩摩一国の守護でした。初代忠久・二代目忠時は基本的には鎌倉に在し,薩摩現地の差配は一族や家人に任せていました。三代目久経は元寇を機会に下向して,以来島津氏の在地化が本格化します。
四代目忠宗は島津氏としては初めて薩摩の地で没しました。五代目貞久の時に,貞久は鎌倉幕府倒幕運動に協力しました。その功により,鎌倉幕府滅亡後,大隅・日向の守護職を回復しました。貞久はこの時の戦いで,東福寺城を落とし,これ以降東福寺城は島津氏の拠点となりました。(現在,東福寺城の跡地は多賀山公園(外部サイトへリンク)となっています。
貞久は,三男師久に薩摩国守護職を,四男氏久に大隅国守護職を分割継承させ(この頃,日向国の守護職は一色氏でした),それぞれ師久は総州家,氏久は奥州家と呼ばれるようになります。
氏久の嫡男大隅国守護職奥州家島津元久は,室町幕府に日向・大隅両国守護職を補任されます。その後,総州家が衰退したので,幕府は総州家に補任していた薩摩国守護職も元久に補任し,元久の時に島津氏は薩摩・大隅・日向の守護職を一手に獲得しました。
七代元久は鹿児島に清水城を作り,この清水城は十四代勝久の時代まで,島津氏本家の居城となりました。また,元久は福昌寺を島津氏の菩提寺として創建します。元久の時に,島津氏の鹿児島支配の大きな支柱が作られたと言えます。(清水城は島津氏の居城となり,前述の東福寺城はいざというときの後詰めの城となりました。現在,清水城の跡地には鹿児島市立清水中学校があります。)
ただ,元久は三国の守護職を獲得はしたものの,49歳の若さで亡くなります。元々支配していた大隅はともかく,薩摩と日向の支配権についてはまだ名目だけでした。元久には嗣子がなかったため,弟の久豊が継ぎ,八代久豊は「本拠地の大隅を固めつつ」「薩摩・日向における実質的支配権を確立する」ことを目的としていました。反乱分子は伊集院氏や総州家,渋谷氏など多数いましたが,21年かけて薩摩一国の制圧に成功しました。次は日向制覇に手をかけた段階で,久豊は51歳で病死します。
九代忠国は,本家相続後,領国内で国一揆が多発して,弟用久とも争いますが,なんとか和解します。忠国の弟用久が薩州家を興し,忠国の庶長子友久が相州家を興し,三男久逸が伊作家を継ぎます。忠国の時に,幕府は忠国に琉球を分国として与えたと伝えられています。
九代忠国は国一揆で苦労し,そのためその後家中や国方に高圧的な政策をとっていましたが,その子十代立久の時は多少それを緩めています。また,伊東氏が日向守護職を望んでいましたが,それを阻止しました。応仁の乱において,島津は東軍に属していましたが兵は動かしませんでした。立久の晩年は比較的平和に過ぎましたが,43歳の若さで亡くなったので,子の忠昌が12歳で十一代当主となります。
九代忠国と十代立久の時に,守護の封建的な領国支配は進みますが,過渡期であり,不安定な時期でもありました。守護の領国支配の権力構造が不安定な時期に,幼主忠昌が当主を継ぐということは,家臣団に下克上される恐れも大きく,実際「国中大乱」と言われるほど騒乱の続いた時期です。忠昌は文学に優れ,桂庵玄樹を招聘して朱子学の一派「薩南学派」の基礎を築いたり,高城秋月を招き水墨画を普及させたり,琉球や李氏朝鮮とも貿易したりなどして,文化活動を盛んに行っており,その点では評価が高いのですが,残念ながら三国の守護としての権威は下っていきました。
忠昌の後,その長男十二代忠治,次男十三代忠隆,三男十四代勝久が相次いで襲封します。十二代忠治は在任期間七年で27歳の時に没し,十三代忠隆は在任期間四年で23歳の時に没しています。忠治も忠隆も文学好きで,平時ならそれも良いのですが,戦国の世では島津氏の守護としての力は弱体化する一方でした。
このような経緯で,十四代勝久の時点では島津宗家の力はだいぶ落ち込んでおり,勝久の義弟(妻の弟)である薩州家当主島津実久が,守護の座を自分に譲るよう勝久に迫りました。そのやり口があまりに苛烈だったため,勝久は,有力分家の伊作家の当主島津忠良に助けを求めます。ここでようやく,島津氏中興の祖と呼ばれた島津忠良(日新斎)に繋がります。
島津氏初代から十四代及び伊作島津家の系図(PDF:248KB)
文責:鹿児島県鹿児島地域振興局
鹿児島県としての正式な見解ではないことに御留意ください。
<参考文献>
鹿児島県史・鹿児島市史・島津氏正統系図他
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